1 樺山紘一東京大学教授の南京事件
質問
樺山紘一東京大学教授は平成八年の「現代用語の基礎知識 1996」で南京事件をこう解説しています。
「一九三七年一二月、日本軍の南京占領にあたっておこった大略奪・虐殺事件。南京市民にたいする無差別の略奪により、中国側の見解によれば一〇〇万人の、あるいは少なめにみても二、三〇万人の命が奪われた」
なぜこのような数字をあげたのでしょうか。
答え
樺山紘一は西洋中世史を専門とする東京大学文学部教授で、歴史の専門家です。一般向けに「世界の歴史」の著作があり、テレビの教育番組にも出演していました。
いうまでもなく歴史研究は史料にあたることから始まり、史料を解釈し、選択し、最後にまとめます。史料には事実でないこと、たんなる噂、事実に反するものが記述されていることもあり、それらは排除され、基礎的事実がのこります。歴史の研究はそれについての解釈や選択です。
南京事件に関する史料も、まともなものからあてにできないものまであります。近代の戦争には宣伝がつきものですから、意図的なものが多数つくられます。
かつて石器発掘事件というものがありました。平成十二年、前・中期旧石器時代から石器が発見された、と報道され、そのことにより日本の歴史は一万年もさかのぼることになりました。しかし発見現場を調べると、前・中期旧石器時代の地層にまえもって石器を埋めておき、これまでなかった層から発見された、とされていたことがわかり、世間は二十年間騙されてきました。
これとおなじことが南京事件でも行われ、数字がつくられ、報道され、教科書に記述されてきました。
市民の人口の推移と中国軍の編成と撤退したあとの数を調べれば、大まかな犠牲者数が出てきます。三十四万人の犠牲者が出たというものや百万人の犠牲者というものがありますが、三十四万人という数字は基礎的事実に入りません。百万人もいうまでもありません。あてにできない史料は排除され、南京の場合、数万の死体があったという事実と、市民の死体はほとんどなかったという事実がのこります。そこから、数万という数は戦死した兵士のもので、市民に犠牲者は出なかった、といった研究結果が出てきます。
樺山紘一は基礎的事実に入らない数字を記述していました。なぜそんなことをやったのか問われた樺山紘一はこう答えています。
「中国を訪問した際、南京事件の犠牲者数を『一〇〇万人』と記述している文書を見た記憶がある。しかし、裏付ける具体的な史料は手元にはない」
樺山紘一は中国のいうまま数字をあげ、南京事件について基礎知識を持ちあわせていなかったため、一方的な記述をしてしまいました。史料に対する姿勢からも歴史研究家として失格です。
自然科学でこのような研究を行えば、研究者はその生命を失います。というより研究が成り立ちません。しかし人文科学では、その人の見方などという理由がつけられ、許されることがあります。このような姿勢は厳しく排除されなければなりません。
2 評論家・立花隆の南京事件
質問
ジョン・ラーベの「南京の真実」が発売された平成九年十月、立花隆は「私の読書日記」(週刊文春)のなかで「南京の真実」を取りあげ、こう結論づけています。
「日本にはいまだに、『南京大虐殺まぼろし』説をとなえる人々いるらしいが、そういう人々にぜひとも読ませたい一冊である」
この記述をどう受けとればよいのでしょうか。
答え
ジョン・ラーベはドイツ人で、ドイツ企業の南京支社長として中国で働いてきました。
日本軍が南京を占領すると、日本軍による略奪と放火が起き、南京は凄まじい街に変わり、街には背中を撃たれた市民が百メートルから二百メートルおきに転がったと「南京の真実」に記述しました。市民が街に転がっていたことはなく、虚偽の記述です。
翌年一月十四日に上海ドイツ総領事館へ宛てた文書では、約二万件の強姦が起きたと記述し、その記録は戦後に東京裁判へ提出され、南京で強姦が多発したと判定される根拠となりました。これも虚偽の記述です。
ラーベは長年中国で生活していたため中国びいきとなり、アメリカの宣教師に負けず反日宣伝し、このような行動を取りました。十二月十三日に中国兵が難民区に潜りこんだとき、ラーベは着替えを手伝い、建物にかくまいました。ラーベは処罰されて当然の行為を行い、日本軍にまったく敵対していました。
そういった著書を立花隆は高く評価しました。
立花隆は、ノンフィクション作家として名をなし、知の巨人ともいわれ、数十万冊の蔵書をもっていたことでも知られています。そういったひとが「南京の真実」を評価したことにより、南京事件に疑問を抱いていたひとのなかに考えを変えたひともいたでしょう。
立花隆は「南京大虐殺まぼろし」という言葉を使っているくらいですから、南京事件について論争のあったことを知っています。立花隆を有名にした「田中角栄研究」を発行した文藝春秋は月刊誌「諸君!」を発行し、「諸君!」は南京事件を否定する論考を数多く載せています。「南京の真実」が発売されると、高評価の記事が続出しましたが、反論も起きました。なぜ立花隆は「南京の真実」を評価したのでしょう。
NHKテレビ「立花隆・最後の旅」によれば、立花隆は、南京事件を声高に叫んでいた筑紫哲也を戦後生んだ最大のジャーナリスト、と評価していました。筑紫哲也は「朝日ジャーナル」編集長として、またテレビのコメンテーターとして、南京事件をたびたび主張してきました。
これからすると、立花隆には以前から南京事件を事実とみなし、「南京の真実」が事実を記述しているかどうか考えることなく、「私の読書日記」のような書き方となったのでしょう。
立花隆は好奇心を抱くとどこまでも追求したといわれますが、「南京の真実」の記述からすると、その好奇心はいわれているような人間の本質に迫ろうとする知的好奇心でなく、自分に合う好奇心のことなのでしょう。
立花隆が頑健な書庫をつくって間もなく、数十万の蔵書も小さいフロッピーに収まってしまう時代となりました。人間は、好奇心にとらわれるだけでなく、社会にもとらわれ、なかなか抜けだすことができません。大きい書庫をつくったことなどから、立花隆を知の巨人などと褒めていましたが、褒めすぎでしょう。
ラーベの著作については、畝本正己「真相・南京事件―ラーベ日記を検証してー」(文京出版)と、門山榮作=東中野修道「共同研究 ジョン・ラーベ『日記』の異同について」(「亜細亜法学」第50巻第2号~第53巻第2号)が詳しい分析を行っています。
3 山本武利一橋大学名誉教授の南京事件
質問
山本武利一橋大学名誉教授はつぎのように記述しています。
「一九三七年末の日本軍の南京占領の際に日本軍が中国兵捕虜ばかりか一般市民まで多数を死傷させた南京事件が起きたことはたしかである」
山本教授は「日本軍のメディア戦術・戦略」といった著作をものし、早稲田大学20世紀メディア研究所所長をつとめていますが、なぜこのような記述をしているのでしょう。
答え
山本武利教授は戦時宣伝について多数の著作があり、戦時宣伝研究の第一人者とみなされています。そういった研究者が南京事件を戦時宣伝でなく歴史事実ととらえているのですが、簡単にいえば研究が足りないからといえるでしょう。
たとえば山本教授は平成十八年に刊行された北村稔「『南京事件』の探求」を引きあいに「最近、チンパーレーが国民党国際宣伝処の顧問となっていたことが確認された」と書いています。
しかし、ティンパーレーについてはその二十二年まえの昭和五十九年、谷口巌「南京大虐殺の研究」が、
「『外国人の見た日本軍の暴行』(テインパーリィ著)は、英人がロンドンで出版した形になっているが、実は国民党の政治部が金を出し出版したもの」
「同書はすぐさま日本語にも翻訳され、『反日宣伝、謀略戦』のヒット商品となった」
と書いています。すでに二十二年まえティンパーレーは中国と何らかの関係があり、中国側に立って宣伝していたことが知られています。
また山本教授は、
「(上海派遣軍報道部の)馬渕は『南京には外人記者が二、三居残って、市中を巡回した形跡があった。彼等は攻略日本軍の行動を観察して、アラ、欠点を探索し第三国の対日輿論を悪化せしめんとするスパイ的存在』と口をきわめて一部の外国人記者を攻撃している。
二、三の“スパイ的”記者というとき、馬渕の頭にある一人がチンパレー(ティンパーリー)なるマンチェスター・ガーディアン紙記者であったろう」
と書いています。
しかし、南京には「ニューヨーク・タイムズ」や「ザ・タイムズ」の記者が残って南京事件を宣伝しており、馬渕はそのことをいっているので、このときティンパーリーは上海で取材し、南京事件を宣伝するのは翌年になってからです。
このようなことからわかるように山本教授は研究が足りないのです。
さらに山本教授は、昭和十三年五月二十日発行の「アサヒグラフ 支那事変画報 第十六輯」に掲載された写真をあげ、「松井司令官が『大虐殺』直後にその事実を認識し、軍内に再発防止を指示する軍令を出していたこと、そしてそれが半年後には中国側に漏洩し、前線では周知の事実になっていたことを示唆している」としています。
写真は「中國ノ人民ヲ虐殺スルナ 松井」と書かれているもので、「和県城外の人家の壁に支那人が残した落書」と説明されています。
松井司令官の日記が残っていますが、大虐殺を認識したことは記述されていません。軍紀について命令を出していますが、大虐殺防止の命令は出していません。昭和十三年一月に中国の新聞でも南京事件が宣伝されていたのでこのような落書がされたのでしょう。
山本教授は朝日新聞の「スクープ」を軍が許した、ともしていますが、日本軍は南京事件が起きたと思っておらず、宣伝とみなしていますから、写真の掲載を許可したのです。
山本教授は戦時宣伝をよく理解していないうえ、南京事件を頭から事実とみなしているため、こうなったのでしょう。
4.松浦正孝北海道大学教授の南京事件
質問
松浦正孝北海道大学教授は「『大東亜戦争』はなぜ起きたのか」のなかでこう記述しています。
「中支那方面軍の南京攻略にあたっては虐殺暴行事件が発生し、世界に向けて『南京大虐殺』として報道された。このことが、松井ら軍司令官が更迭される一因となったことは否定できない」
また、松井石根司令官がつぎのように語ったことを事件の証拠としてあげています。
「南京占領当時などの日本軍の彼の地方に於ける有様は遺憾ながら私が今部下に与へた訓示の如く十分に之を実行することは出来なかった。是は偏へに軍の統帥に当った私の不徳の至らしむるところであると思うて、南京入城の翌日将兵を集め、私は非常な懺悔をしたことがあったのです」
松浦正孝教授の著書は松井石根大将の大アジア主義を取りあげた大冊で、松浦教授は松井大将を理解していると思われますが、なぜこのような記述をしているのでしょう。
答え
松浦教授の著書は平成二十二年に刊行され、そのころ南京事件はほぼ解明されていました。松浦教授の研究テーマは大アジア主義で、南京事件についてはすでに研究されたものを参考に記述するだけで、そのころ教科書はすべて事件を記述し、事実であるかのような空気が醸成されていたため、事件が起きたと主張する著述だけに目を通してこのようになったと思われます。
まず、松浦教授のいうように世界に向け事件が報道されたのは事実ですが、それが宣伝であることを研究している著作を無視しています。
また、南京事件について「松井ら軍司令官が更迭される一因となった」と記述していますが、中支方面軍、上海派遣軍、第十軍の三つの軍司令部の意見が異なっていたため三人の司令官が辞めることになったもので、南京事件とはまったく関係ありません。
さらに松井司令官が「懺悔したこと」とは、日本軍の入城後十ないし二十の不法行為が起きたと十二月十七日に報告を受け、それに対して訓示したことを指します。十数万の中支那方面軍ですからそれくらい不祥事は起きるでしょうが、そのことを松浦教授は大虐殺といっているのです。
そのさい松浦教授は松本重治の「上海時代」を引用していますが、松本重治が入城の翌日のことと記述しているものは昭和十三年二月七日のことで、自分の見方を補強するため間違った記述を引用しています。
5.野中広務衆議院議員の南京事件
質問
野中広務衆議院議員は、国会議員で初めて南京虐殺記念館に行き献花し、官房長官在任中には南京事件を肯定、南京事件の犠牲者という夏淑琴を励ましています。どのような根拠からこうしているのでしょう。
答え
南京が陥落したとき野中広務は子供で、喜んで提灯行列に参加しましたが、村山内閣の自治大臣に就任し、地元から提灯行列をという声が上がったとき、断りました。
明治以降の日本は他国を侵略し、多くの非戦闘員を殺し、国民に多大な犠牲を強いたと考え、南京事件がなかったという議論を非常に危ないとみなしているからです。
京都府会議員だった昭和四十六年、南京へ行き、城壁に差しかかったとき、一緒に行った後援会員のひとりが突然うずくまり、体を震わせ、動かなくなり、強心剤を打たれてようやく落ち着きました。後援会員は、福知山連隊の一員として南京攻略戦に参加、城内に入ると一軒の家に女性と子供ばかりおり、上官からこのなかに便衣兵がいる、例外なしに殺せと命令され、みんな目をつぶって火をつけ殺し、それを思い出して恐ろしくなったというのです。このことが南京事件を認める大きい要因と考えられます。
しかし、そのような殺戮が実際あったのでしょうか。
昭和十二年十二月十三日、福知山連隊の第一と第二大隊は中山門から南京城内に入り、中山東路の北側を進みます。一帯は軍官学校や国民政府など公共の建物が主で、中国軍はまだ残っていましたが、市民はほとんどいません。連隊は中山北路まで進みますが、前日までのような激しい戦闘はありませんでした。
十四日、第四中隊が中山路に沿った大きい建物のなかの敗残兵を摘発して射殺しますが、それ以外、連隊が銃火を交えることはありません。
十五日午後、第一と第二大隊は城外の掃討に向かい、代わって第三大隊が城内へ進み、第十六師団の入城式が行われました。
これが城内へ入った連隊の数日の様子です。
中山門の外五、六キロメートルは十日から激しい戦闘が始まり、数日つづきましたから、中山門内の建物に女性と子供ばかりが残っていることはありえません。かりに残っていたとしても女性と子供ばかりですから、便衣兵がいるからと殺害命令が出されることもありません。女性と子供だけを火をつけて殺すことなど考えられません。
福知山連隊といえば、昭和六十二年、第三中隊の東史郎一等兵が、城内で中国人を郵便袋に入れ、手榴弾を結わえて池に放り込み、爆死させたと語り、各紙が取りあげ話題となりました。その年の暮れに東一等兵は中国へ行って謝罪し、各紙はその行動もほめたたえました。地元の京都新聞もそうだったため、連隊の関係者たちは京都新聞に抗議し、京都新聞は翌年十二月に関係者の言い分を載せることにします。東一等兵を知る第三中隊長や東一等兵と親しかった人たち五人が出席、東一等兵の主張を否定する見方を話しました。三回にわたり、写真入りで報道されましたから、地元の野中衆議院議員も知っていたでしょう。このときなぜ野中は後援会員の話を持ちださなかったのでしょう。持ちだしたのは二十年もあとの連隊の関係者がほとんど死んだときです。
平成元年になると福知山連隊の関係者は、連隊は軍紀厳正であり、マスコミは心ない従軍者の虚妄の証言のみ取りあげ、連隊を狂気の殺人集団であったごとく宣伝しているので正しく訴えていく、として「福知山連隊愛護会」が結成されました。「福知山連隊愛護会」は殺害などの証言者を探しましたが、証言する人は現れません。
やがて東一等兵の話は裁判に持ちだされ、デマであることが明らかになりました。
このような事実から、後援会員の話は信用に値するものでなく、野中は一方的に南京事件を肯定しているとわかります。
官房長官時代の発言も、中国人が南京事件などの損害賠償を日本の裁判所に求めて敗訴したとき、わざわざ南京事件を認める発言をしたもので、その根拠は述べていません。
6.加藤陽子東京大学教授の南京事件
質問
近隣諸国条項以降、教科書では南京事件が書き放題となりました。典型は平成十四年に検定合格した高校の日本史B「詳説日本史」(山川出版社)で、南京事件をこう記述しています。
「日本軍は南京市内で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民(婦女子をふくむ)および捕虜を殺害した(南京事件)。犠牲者については、数万人~四〇万人に及ぶ説がある」
執筆者は東大国史科の加藤陽子助教授で、犠牲者は四十万人。日本の学問レベルはここまで下がったのかという思いです。
答え
歴史学者のあいだで、過去のどの出来事を取りあげるか、その出来事をどう解釈するか、必ずしも一致するわけでありません。最近の流行り言葉でいえば歴史認識です。しかし、過去の出来事について、真理はひとつしかありません。明確でなかった出来事は、史料を検討し、ときには考古学などの助けにより、誰もが認める基礎的事実が出てきます。そうすることも歴史学者の任務で、それをもとに解釈するのが歴史です。
加藤陽子は「多数の中国人一般住民(婦女子をふくむ)および捕虜を殺害した」「犠牲者については、数万人~40万人におよぶ説がある」と記述しています。これからすると、一般住民と捕虜を殺害したことは基礎的事実、犠牲者を数万人と見る人と40万人と見る人がおり、まだ基礎的事実は決まっていないと考えられます。このことを見てみます。
多数の一般住民と捕虜を殺害した記述については、住民のほとんどが難民区に移っており、紅卍字会埋葬記録によればそこでの埋葬数は175体です。どのような死体かといえば、流れ弾によるものなどで、虐殺されたものでありません。子供と女にしぼれば子供4体、女2体ですから、市民殺害がなかったことは自明です。難民区の人口が減っていない事実からも、市民虐殺のないことがわかります。捕虜については、1万から2万の中国兵が便衣に着替えて難民区に紛れこみ、日本軍はそれらを摘出して処断しましたが、それは戦闘行為で、国際法に違反しているわけでありません。加藤陽子は基礎的事実をでないことを使って記述しています。
つぎに数万から40万という犠牲者を見ます。
数万というのはテンパーレーが「戦争とは」に書いている4万2千から取ったと考えられます。それはベイツ教授の一月十日付け手紙の一万と、ベイツ教授が参考にした紅卍字会埋葬記録からなっていますが、手紙の数字は根拠が示されておらず、実際に埋葬された数は記録の半分で、戦死体です。つまり数万という数字は基礎的事実でありません。
また40万という数字は、南京大学歴史系編著「日本帝国主義の南京における大虐殺」が具体的に示しています。それによると、東京裁判に出された証拠(紅卍字会埋葬記録4万3千余、崇善堂埋葬記録11万2千余、魯甦の証言する5万7千余、合計21万2千余)のほか、紫金山麓で捕虜と市民を生き埋めにした3千余、上新河付近で虐殺した軍人2万8千余、燕子磯で虐殺した軍人と市民10万余、司法院から連れだし漢中門外でした軍人と市民2千、難民区の青年1万余のうち数百人を付近の池で銃殺、残りを下関・煤炭港で銃殺したもの、鼓楼一帯の難民収容所の数万人のうち5百を近くの池で銃殺、残りも駆りたて銃殺したもの、司法院の捕虜5百余を建物とともに焼き殺したもの、難民収容所の青年一万余を連れだし焼きころしたもの、華僑招待所の5千余を中山埠頭で銃殺したもの、下関と和記公司の難民1万余を煤炭港で銃殺したもの、燕子磯の3万人を焼き殺したもの、漢西門外で6,7千を焼き殺しあるいは生き埋めにしたもの、上元門で9千を銃殺したもの、合計すると40万前後といっています。
これを検討すると、紅卍字会については、埋葬した数は記録の半分でほとんどが戦死体、崇善堂の埋葬記録は偽造されたもので、死体は零。魯甦の数字は、燕子磯の10万余と3万と上元門の9千とおなじことを指していると思われます。日本軍は烏龍山と幕府山で1万5千余人を捕らえ、そのうちの市民を解放し、のこる兵士を上元門の上流と下流で2千ほどずつ放するつもりが混乱から射殺したことを指しているのでしょう。これは戦闘の一環で、不法行為でありません。
ほかの数字についていえば、紫金山麓の3千余は、南京郊外の丘陵ですから市民はおらず、12月10日から戦いによるもので、戦闘は続いており生き埋めする余裕はありません。上新河付近の2万8千余は12、13日の一帯での激しい戦闘によるもので、実数は2千ほどと考えられます。司法院の2千と5百余というのは、司法院に難民はおらず、隠れていた3百余の敗残兵を14日に近くで処断したものを指すと思われ、これも戦闘行為で、司法院は焼けていません。難民区の青年1万余と収容所の数万と難民収容所の青年1万余は、難民区に紛れていた敗残兵を処断したもので、処断は合わせて6千余、違法なものでありません。華僑招待所は家族だけが2500人が入っており、家族を銃殺するなどは起きていません。下関と和記公司の1万は、13日に中国軍を追い詰めた日本軍が殲滅したもので、そこに市民が紛れこみ犠牲になったのがいるかもしれませんが、流れ弾によるものです。漢西門外の6,7千については、焼きころしあるいは生き埋めにしたことは起きていません。このようなことから40万も基礎的事実といえません。
中国では戦死した軍人や流れ弾の住民も虐殺死として数え、南京大学歴史系編著「日本帝国主義の南京における大虐殺」もそうしています。
テンパーレーについては、国民党の宣伝部が依頼し、できあがった著作は宣伝物で、当然史料検討を行わなければなりません。
戦時中、中国は宣伝に力を入れ、とほうもない数字をつくり、そういった数字がここにも記述されています。
おおまかにいえば、南京には市民20万人、南京防衛軍6万人がおりました。南京陥落後、市民20万は変わらず、南京防衛軍は、南京から脱出したもの1万8千、日本軍がとらえて収容などしたもの1万、残り3万2千が南京城内外で生じた戦死体です。
南京事件を記述するにはこういったことを明らかにしたうえ、基礎的事実をもって記述しなければなりません。
つまり加藤陽子は基礎的事実の確認を行わず、基礎的事実でないもので南京事件を記述しています。歴史学から見て失格です。
質問
さきほどの記述のあと「なお、外務省には、占領直後から南京の惨状が伝えられていた」と記述していますが、史料の精査からおなじ誤りですね。
答え
そうです。この記述は南京の情報が外務省へもたらされたことを指し、南京にいた宣教師が文書を日本の総領事館に提出し、それが東京に送られたことを指すと考えられます。その宣教師は南京攻略をまえに中国軍支援を決議し、やってきた日本軍の批判に力を入れ、そのひとつが一方的な文書です。受けとった日本の総領事館の責任者はこの文書を「是等の大多数は伝聞でありましたが、総領事館では事実を一々調査する暇も無かった為、一応其の儘之を東京外務省に報告し」と証言します。文書そのものは一次史料ですが、正しいものであるかどうか確認しなければならず、加藤陽子はここでもそれをせず、基礎的事実でないものをもとに記述しているのです。
質問
なぜこのようなことをしたのでしょう。
答え
それまで使用されてきた「詳説日本史」の近現代史は伊藤隆東大教授が執筆し、南京事件を「日本軍は非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺害し、敗戦後、東京裁判で大きな問題となった(南京事件)」と記述していました。加藤陽子が交代したと考えられますが、加藤陽子は独自色を出そうとし、中国の記述をそのまま引用したのかもしれません。
もうひとつは、加藤陽子のほかの著作を見ると、イデオロギーに偏っており、日本軍の負の部分だけを取りあげるため、歴史が歪められています。たとえば他国より優れていた日本の軍紀を例外的な出来事をもって否定するといった姿勢がそうで、そういったやり方が教科書執筆まで及んだのかもしれません。
「詳説日本史」には創始改名(正しくは創氏改名)や華北省(正しくは河北省)などといった単純な誤りあり、基礎的事実を無視する姿勢があるからこのような誤りが出るのでしょう。
「詳説日本史」までは、中国が主張しているとして30万の数字を記述する教科書もありましたが、40万という数字は初めてで、しかも引用先も記述せず、当然、批判があがりました。そのため検定合格した年の十二月三日付けで修正申告をし「南京陥落の前後、日本軍は市内外で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民(婦女子をふくむ)および捕虜を殺害した(南京事件)」と訂正することになりました。基礎的事実を使っていないことを知っているのでしょう。ただし外務省に伝えられていた記述については訂正していません。