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つくられた従軍記

1 曽根一夫 「私記南京虐殺」

質問

高校教科書に引用された「私記南京虐殺」はどのような著作ですか。

答え

「私記南京虐殺」は、大嶽中隊の分隊長が行ったという残虐行為を記していました。

たとえば、南京手前の句容まで進んだとき、分隊長は、徴発に向かった村落で若い夫婦をみつけると、率先して強姦し、発覚されないようふたりを立ち木に縛って殺した。おなじ句容で、分隊員が行方不明になったとき、土壁でかこまれた五、六十戸の部落を怪しいとにらみ、火を放って男女老若見境なしに殺した。また、南京陥落直後、民衆のなかに保身のため讒訴するものがおり、その情報をもとに一集落を焼きはらい、住民を殺した。

こういった残虐行為を記述しており、現存している元下士官が書いたというので、南京事件研究家たちから注目され、評価する研究家も現れました。

しかし、著者は二十三歳の下士官といっており、昭和十年に入隊したと考えられますが、出征する昭和十二年八月の様子が記述されておらず、素性がはっきりしません。

記述されている行動から、歩兵第三十四連隊か、歩兵第十八連隊の所属と思われますが、そこに大嶽中隊という中隊はありません。歩兵第六十八連隊の兵士のようでもありますが、そこにも大嶽中隊はありません。

基本的な記述や肝心なことがぬけており、事実を書いているのかという声があがりました。

「私記南京事件」刊行から半年後、「続 私記南京虐殺」が発行されました。当時の日記を撮影した写真が載せてあり、十二月十七日に「南京入城式参加。松井大将の第二ボタンが外れているのが目についた」と記述されています。

入城式の様子は写真や映像でのこされていますが、松井司令官のボタンが外れていたものはありません。日記はつくられたものとわかりました。

それだけでなく著者は第三師団の野砲兵第三連隊の一等兵であったことも判明しました。

野砲兵は歩兵の後方を進みますから、記述されているような残虐行為はできません。残虐行為もつくられたものであると明らかになりました。

しかし、おなじような記述のものがその後も刊行されつづけ、三社から四冊刊行されました。

南京事件研究家が高く評価したことによりこのようなことが起り、そのうえ昭和五十七年に近隣諸国条項がもうけられたためこのような著作でも教科書に引用されることになったのです。

参考資料

板倉由明「本当はこうだった南京事件」(近代文芸社)

2 東史郎「南京プラトーン」

質問

東史郎の日記は、中国で発行され、アメリカのアイリス・チャン「レイプ・オブ・南京」に引用され、海外でも話題となりました。東日記とはどういうものですか。

答え

東史郎は昭和十二年八月に徴兵され、歩兵第二十連隊の一等兵として南京戦に参加しました。入城式のあと東史郎の所属している第三中隊は城内の警備にあたります。十二月二十一日、最高法院まえでこのようなことが起きたと日記は記しています。

東史郎たちを指揮していた分隊長は、引っ張られてきた中国人を郵便袋に入れ、ガソリンをかけ、火をつける。そのうえ手榴弾二発を結わえ、沼へ放りこむ。手榴弾は水中で炸裂した。

「平和のための京都の戦争展実行委員会」は、毎年夏、戦争に関する展示会を開催し、昭和六十二年にこの日記を展示しました。

しかし、郵便袋は人間を入れるほど大きくありません。郵便袋が沈むまえ手榴弾は爆発してしまいます。記述してあるようなことはできません。

そういった記述でしたが、戦争が風化したせいもあり、全国の新聞で報じられました。

東史郎は若いころ作家志望で、戦争をテーマに書きたいと思い、敗戦後、日記の体裁で小説を書きました。昭和六十二年、昭和十二年当時書かれた日記として公開し、取りあげられたのです。

手榴弾だけでなく、ほかにも兵士が読めば創作とわかる記述があり、戦友は東の行動をいさめましたが、東史郎は応じません。そうするうち分隊長が東京で健在、分隊長はそのようなことはなかったと訴えました。そうなっても朝日新聞をはじめマスコミは東の擁護をつづけました。やがて戦友は誰もが東史郎から去ってしまいました。

平成五年、東京地裁は、記述は実行不可能、日記は戦後書かれたもの、と判定しました。

判決が出ると、マスコミは沈黙しますが、代わって中国が注目、日記の中国語版を発行、東史郎の写真を南京祈念館に展示、人気テレビが東史郎を出演させ、東史郎はたちまち中国で有名な日本人のひとりとなりました。平成九年にはアイリス・チャンが日記を引用しました。

平成十一年に最高裁の判決が出て、日記は当時書かれたものでないと決着がつきます。日本のマスコミはそれまでの姿勢を変えますが、中国は変えず、東史郎も訪中して謝罪を繰り返しました。東史郎は中国だけを支えとするようになりました。

日本を貶めれば取りあげるという日本のマスメディアの姿勢が生んだ悲劇といえるでしょう。