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東京裁判が裁いた南京事件

1 検察側の立証

質問 

 検察側は南京事件についてどのような立証を行ったのでしょうか。

答え

 全体の流れは、最初に検事側の立証が一年ほど行われ、つづいて弁護側の反証が一年ほど行われました。そのあと、それぞれ総括的な立証と反証が行われました。南京事件については、約三十日間審理についやされ、立証と反証が半分ずつ行われました。

南京事件の立証は昭和二十一年七月二十五日からはじまりました。この日、鼓楼病院の外科医師であるウイルソンが証言しました。こう証言します。

 「数日の中に病院は見る見る中に満員になりまして、其の患者は主として男、女、子供のあらゆる年齢の者でございました」

日本軍が入ってくるとたちまち病院はいっぱいになり、手術に忙殺されたと証言しました。

つづいて七月二十九日、金陵大学のベイツ教授が証言台に立ちました。こう証言します。

 「日本軍入城後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」

ベイツ教授はウイルソン医師と違い、街の様子を証言しました。証言は一日中つづき、凄まじい南京の様子を証言しました。殺害された市民一万二千人、中国兵三万人と具体的な数字も証言しました。

八月十五日、マギー牧師が証言しました。マギー牧師もベイツ教授同様南京の様子を証言しました。

 「間もなく是等の日本軍に依りまする殺戮行為は到る処で行われたのであります」

 このように証言するとともに、たちまち強姦、略奪、放火などさまざまなことが起こったと証言しました。

アメリカの宣教師のほか、中国人も証言台に立ちましたが、それらは簡単な証言だったり、口供書が読みあげられるだけだったり、宣教師の証言と比べものにならず、弁護側の反対尋問もありません。南京のイメージは三人の宣教師がつくりあげたといえるでしょう。

八月二十九日になると、埋葬記録というものが提出されました。

 「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表 総計112,266」

 「世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表 総計43,071」

 ふたつの埋葬記録で、合計すると十五万余人が埋葬されたというものです。

 いろいろ提出された証拠記録のなかでも埋葬記録は詳細を極めるもので、注目を浴びました。

検察側はこのような立証から南京では多数の市民殺害が行われたと主張しました。

2 弁護側の反証

質問 

検察側の立証に対し、弁護側はどのような反証をしたのでしょう。

答え

反証は、まず、検察側の証人が証言台に立ったとき反対尋問が行われました。

昭和二十一年八月十六日 マギー牧師の証言が一段落したとき、ブルックス弁護人が反対尋問しました。ブルックス弁護人とマギー牧師のやりとりはこのようなものです。

    ブルックス弁護人の尋問

 「只今の御話になった不法行為若しくは殺人行為と云うものの現行犯を、あなた御自身幾ら位御覧になりましたか」

      マギー牧師の答え

 「唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました」

      ブルックス弁護人

 「強姦の現行犯をご覧になったことがありますか」

      マギー牧師

 「一人の男が実際に其の行為をして居った」

      ブルックス弁護人

 「あなた御自身が、強盗であると思われ、若しくはあなた御自身が強盗されたと云う事

件を、あなたはどの位の数御自身で御体験になりましたか」

      マギー牧師

 「アイス・ボックスを盗んで居ったのを見ましたことは憶えて居ります」

 反対尋問ではまるまる一日にわたるマギー牧師の証言がほとんど伝聞か根拠のないものであることを明らかにしました。

 埋葬記録に対しては、昭和二十三年四月九日の「松井石根最終弁論」で、まずこう反論します。

「前記各証は南京が日本軍に占領せられて後、実に十箇年を経過したる一九四六年に調査せられたりと称せらるるものにして、その調査が如何なる資料に基き為されたるや判明せず。殊に死体の数に至りては十箇年後に之を明確にすること殆ど不可能なりといふべく、此処にかかげられたる数字は全く想像によるものと察するの外なし」

崇善堂の埋葬記録はつくられたものであると指摘しました。

崇善堂は捨てられた赤ん坊の世話をする慈善団体ですから、埋葬活動をしたことがなく、しかも、埋葬していたとされた期間は赤ん坊を世話する活動も止まっていました。弁護側が指摘するとおり、埋葬記録は戦後つくられたものです。

また、弁護側は紅卍字会についてこう指摘しています。

「一九三七年十二月二十六日より二十八日に至る埋葬作業に於て四〇四箇の死体を埋葬

し、一日平均一三〇箇を処置せり。然るに一九三八年四月九日より十八日に至る間に兵工廠・雨花台の広大なる地域に於て二六、六一二箇の死体を埋葬し、一日平均二、六〇〇箇を処理せり、前後の作業を比較せば、その誇張・杜撰の信憑し難き表示なること明瞭なり」

 百三十体を埋葬する日もあれば、二千六百体を埋葬する日もあり、信頼できないと指摘しました。

 紅卍字会の埋葬記録は昭和十三年当時作成されたものですが、埋葬に従事する貧民を援助するため、活動以上に埋葬をしたことにし、空欄に架空の数字を書き込み、支払いをしました。そのため、埋葬数がひと桁も増えた日が出たり、雨の日に埋葬したり、という埋葬記録となりました。弁護側が指摘するとおり一日に埋葬できる数は百八十から二百体で、実際に埋葬したのは記録の半分ほどです。それらは戦死体で、市民殺害を記録したものではありません。

また、弁護側は松井石根最終弁論でこう述べています。

「要するにこれは巧妙にして誇大なる宣伝の結果である。由来中国人は宣伝上手であり、

又、宣伝に動かされ易いのであるが、特に排日・侮日の宣伝は二十数年来絶えず軍官民挙げて之を行い、其の方法は巧妙を極めて居る。加之、排日宣伝の最初は、米英の在華学校・教会・病院等の職員によって指導された関係上、這回の南京に於ける不祥事に就いても、日本軍に関する真偽取りまぜたる針小棒大の悪宣伝が逸早く内外に流布されたのである」

 南京事件は、中国の得意とする宣伝によるもので、初期の段階で宣教師が関わったため、たちまち成功した、と指摘し、南京事件は宣伝であると反論しました。

3 東京裁判の判決

質問 

東京裁判は南京事件をどのような事件として認定したのでしょうか。

答え 

判決公判は昭和二十三年十一月から朗読がはじまりました。十一月四日、法廷は「通例の戦争犯罪での南京暴虐事件」という項目をあげ、こう認定しました。

「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の

総数は、二十万人以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、

埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている」

引きつづき十一月十二日に朗読した「松井石根への判定」においてこう認定しています。

「六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万人以上の人々が殺害さ

れ、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした」

これらの判決文は中国の判事によって執筆されました。

犠牲者数は十万以上と二十万人以上のふたつがあげられております。検察側はそれを立

証しておらず、判決文もその違いを説明していません。二十万人の犠牲者のうち十万人は松井司令官に責任がある、といいたいのかも知れません。

 これが東京裁判の判定です。

4 戦争裁判の処罰

質問

 誰が、どのような責任をとらされたのでしょう。

答え

 日本軍の最高指揮官である松井石根中支那方面軍司令官は、訴因第五十五(捕虜と一般人に対する戦争法規の遵守の違反)について有罪とされました。判決はこう述べています。

「本裁判所は、何が起こっていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった」

こう説明し、

「義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない」

として有罪にし、その有罪だけで死刑を宣告しました。

 当時外務大臣であった広田弘毅は、現地から報告を受けたが適切に処置しなかった、として訴因第五十五について有罪とされました。

広田弘毅元外務大臣は、ほかの訴因でも有罪とされ、死刑かどうかの会議では六対五の票決で死刑とされました。訴因第五十五が有罪でなければ、死刑は免れたかもしれません。

また、中支那方面軍参謀副長の武藤章中将も問われましたが、責任はないとされました。

 東京裁判のほか、中国が南京で開いた軍事裁判でも南京事件は取りあげられ、三十万以上が殺害されたと判決しました。谷寿夫第六師団長は、ほしいままの暴虐をしたい放題にさせたとして、また、三百人斬りの田中軍吉中隊長と百人斬り競争の向井敏明大尉、野田毅大尉は、捕虜および非戦闘員に対し共同で虐殺を行った、として銃殺刑に処せられました。