1 歩兵第六十六連隊による敗残兵の処断
質問
歩兵第六十六連隊第一大隊の戦闘詳報に、十二月十三日のこととして、つぎの記述があります。
「旅団命令により捕虜は全部殺すべし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何 (中略)
午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は露営地南方谷地第三中隊は露営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり」
これは、明らかに国際法違反ではないでしょうか。
答え
もし、記述どおりのことが行われたなら、軍命令に反しており、国際法違反といえるでしょう。しかし、この戦闘詳報にはさまざまな疑問があります。
第一に、命令が出されたなら、出した旅団と、出された連隊と第二・第三大隊に、同じ命令があるはずですが、ありません。
第二に、「・・しては如何」という形の命令は、命をかける戦場で出されることはありません。
当時の戦況を見ると、十二月十二日午後、歩兵第六十六連隊は中華門へ右側から向かいます。左側は歩兵第十三連隊、右側は歩兵第百二十八旅団がすでに進出、そこで守りについていた中国軍は斃されるか、歩兵第六十六連隊がまだ進出していない方へ移っていました。それも、歩兵第六十六連隊が前進してきたため、追いつめられ、城壁上からは督戦隊の射撃が加えられ、進退きわまる戦況でした。中華門と雨花門の間一キロメートル近くではこのような戦いが行われていました。
午後三時ころ、その中国兵が投降してきます。やがて数百人に達し、第一大隊が監視します。督戦隊から逃れることができた中国兵はおとなしく従うことをせず、近くの建物に入れますが騒然としていました。城壁と鉄路まで五百メートルほどでのことです。
その夜、中国軍に撤退命令が出され、中国軍は一斉に退却をはじめます。戦況は一変し、十三日早朝、日本軍はつぎつぎ城壁を占領し、城内へ進みます。歩兵第六十六連隊も城内進出を命ぜられます。
第三大隊は城内へ進み、第一大隊では第二中隊が進み、第一中隊と第三中隊の一部も城内へ進みますが、第四中隊は敗残兵の一部を抱えていたため思うように進むことができません。敗残兵は反抗的で、第四中隊は敗残兵を第一、第三中隊に分けることもします。しかし、午後三時過ぎ、大隊長代理の判断か、中隊で指揮をとっていた下士官のあいだの相談か、抱えていた敗残兵を処断することが決せられます。
敗残兵の扱いは下士官や兵もわかっており、掃討を進めるためやむをえない処断と考えられ、第四中隊は百人ほどを処断し、城内へ入っていきます。
翌年、紅卍字会が南京城内外にあった死体を埋葬し、中華門前方では四百八十六体を埋葬します。中華門へは第六師団と第百十四師団が向かい、砲兵が中華門を砲撃、門の前方には多数の戦死体がありました。これからすると、歩兵第六十六連隊が処断した敗残兵は百人くらいか、越してもそれほど多くはなかったと考えられます。
これが戦闘詳報に記述されていた実態です。
また、第一大隊の戦闘詳報は、十二日に九百人の中国兵を斃し、千五百人の中国兵を捕らえたと記述しています。十三日も攻撃を続行し、多数の中国兵が投降してきて、午前九時ころ城内に日本軍の砲弾が命中したと記述しています。
中華門で守備についた第八十八師は、十二日には城内へ戻り、第一大隊戦闘詳報が記すほど中華門まえで斃されていません。また十三日に城壁前の戦いはありませんでした。
では、なぜ実態と異なることが戦闘詳報に記述されたのでしょうか。十四日に戦闘は一段落し、十五日に転進準備が命令され、慰霊祭に参加した一部を除きただちに南京を離れます。長興方面で集結したあと、杭州攻撃へ向かいます。戦闘詳報は、二色刷りであることから連隊の持っている謄写版を使い、戦闘が一段落したとき記述されたと考えられます。第三中隊は杭州攻略が終わった十二月三十一日から戦闘詳報をまとめており、第一大隊戦闘詳報もそのころから記述されたと考えられます。
南京城へ迫るころ、歩兵第六十六連隊では、連隊、大隊、中隊の指揮を代理がとるほど戦死傷者が出ていました。全体を把握することが難しい戦況でした。日々の命令を整理し、陣中日誌を書くことも難しかったでしょう。しかも半月たってからの作成となったため、大隊の戦闘詳報を書いた書記係は、多数の敗残兵を捕らえた、処断した、という話をもとに作文し、事実とかけはなれた記述になったと考えられます。数字も、あげられてきた数を合計したため、二千数百人という過大なものになりました。捕虜という言葉を使っていますが、日本軍が捕らえた敵兵を総括して呼称するもので、国際法的にいう捕虜にはあたりません。
第一大隊の行動は、信夫淳平博士はじめ多くの国際法学者が認める戦闘行為で、国際法違反ではありません。 歩兵第六十六連隊の戦闘詳報は「南京事件資料集」(偕行社)の664頁以下に載っています。関係者の証言は「南京戦史」(偕行社)の210頁と317頁、「城塁」(「丸」平成二年五月号から八月号、十一月号、十二月号)に記されており、記述されている前後がどのような状況かよくわかります。
2 歩兵第三十三連隊による敗残兵の処断
質問
歩兵第三十三連隊戦闘詳報は、「12月10日~14日 彼我の損害戦果」として、
「敵の遺棄死体 10日、二二〇、11日三七〇、12日七四〇、13日五、五〇〇(ただし敗残兵の処断を含む)」
「俘虜、将校一四、下士官兵三、〇八二、計三、〇九六(俘虜は処断す)」
と記述しています。
また、歩兵第三十三連隊を配下に持つ歩兵第三十旅団が十四日午前四時五十分に出した命令に「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」と記述されています。
俘虜を処断したことや、俘虜を受けつけなかったことは、国際法違反でないでしょうか。
答え
歩兵第三十三連隊の戦闘を見ると、十二月十日から紫金山を攻撃し、攻撃は三日続き、十二日夕方、もっとも高い峰を占領します。十三日は紫金山を下り、南京城の城壁に沿って下関(シャーカン)へ向かいます。このとき第一大隊は連隊長の指揮を離れ、佐々木支隊の一部として揚子江沿いを下関へ向かっていました。
紫金山から下関にかけ、南京から脱出しようとする中国軍がおり、午前九時、第六中隊は太平門まで進んだとき多数の中国兵を捕らえます。捕らえた中国兵は俘虜と確定したものでなく、追撃戦は続いており、やがてこれらを処断します。
映画「プライベート・ライアン」の初めのほうで、アメリカ軍によるフランスのオマハ・ビーチへの上陸作戦が描かれ、両手をあげ投降するドイツ兵をアメリカ兵が射殺する場面が出てきます。アメリカ軍は、上陸地点を確保し、少しでも内陸へ進まなければならず、ドイツ兵を捕虜としてとる余裕はありません。太平門での戦いもそういったものでしょう。国際法違反ではありません。
歩兵第三十三連隊は戦いながら下関へ向かい、午後二時三十分、先頭は下関へ到着します。下関にはさらに多数の中国兵がおり、激しい戦闘が行われました。佐々木支隊、歩兵第三十三連隊の進出につづき、三時四十分、海軍が遡行して、中国軍を挟み撃ちする形になり、多数を殲滅します。城内と違い、城外の北側では戦いが続行されていました。
この日の夜、歩兵第三十三連隊は城外に宿営、十四日未明、俘虜受付を許さずとの命令が旅団から出されますが、旅団はまだ城内へ入ることができず、どのような戦闘が待ちかまえているかわからず、敗残兵にとらわれていれば敵を殲滅できないことから、戦術として取られたものです。違法なことではありません。
十四日、城内に入ります。挹江門から続く中山北路、中央門から延びる中央路、それと城壁に囲まれた三角地帯は、歩兵第三十三連隊が掃討を命ぜられ、挹江門から入った獅子山にいた二百人の中国兵を掃討します。
つぎに戦闘詳報に現れた数字を見ます。
歩兵第三十三連隊の戦闘詳報によると、二千四百余人を斃し、三千余人を処断しています。これほど斃し、あるいは処断したのでしょうか。
紅卍字会の埋葬記録によると、下関で千九百九十体を埋葬しています。それらは歩兵第三十三連隊、歩兵第三十八連隊、海軍が斃した合計で、歩兵第三十三連隊だけで二千四百余人というのは、紫金山で斃した数を勘案したとしても、多すぎます。
阿南惟幾第十一軍司令官は日記に、戦果に関する数字は慣例に従って三倍に計上した、と書いています。戦闘詳報は公式記録であり、戦闘についてもっとも信頼がおける資料ですが、阿南司令官が記述するようなことはよくあったようで、歩兵第三十三連隊の数字も、前進をつづけるなかダブッて数えられたりし、実際より多く計上され、こうなったと考えられます。
処断の三千余人にしても、第六中隊によるものと考えられますが、紅卍字会の埋葬記録によると、太平門一帯で五百の死体を埋葬しています。これは戦闘による死体を合わせて五百体であり、処断したのは数百人と考えられます。
歩兵第三十旅団長の佐々木到一少将は歩兵第三十三連隊第一大隊など率い揚子江沿いを下関へ向かい、このときの戦闘を「南京攻略記」(昭和戦争文学全集別巻、集英社)に記述しています。
また「証言による『南京戦史』(9)」(「偕行」昭和五十九年十二月号)と「南京戦史」(偕行社)157,158頁に、とらえた中国兵の数と扱いが記述されています。 太平門の敗残兵については、板倉由明「本当はこうだった南京事件」(近代文藝社)のなかの「太平門一千三百の実相」に実相が記述されています。
3 歩兵第六十五連隊の処置
質問
歩兵第六十五連隊は、十二月十六日に下関の媒炭港から魚雷営へかけた一帯で千人ほどの中国兵を、十七日に草鞋狭の岸で数千人の中国兵を殺します。
国際法に違反しているのではないでしょうか。
答え
山田栴二歩兵第百三旅団長が指揮する山田旅団は、揚子江右岸から南京を目指し、十三日、烏龍山で数千人の中国兵を、十四日、幕府山で一万人近くの中国兵を捕らえます。これら中国軍は、それぞれの砲台を守っていた部隊と、南京城から退却し脱出してきた部隊で、山田支隊は攻撃し、つぎつぎ捕らえていきます。とらえた中国兵は、合わせると一万四千余人とも、一万五千余人ともいわれ、二千二百人の山田支隊の七倍にあたりました。
捕らえたなかには市民も多くまじっており、山田支隊は市民を釈放し、残る八千人の中国軍を上元門にある中国軍兵舎に入れます。このとき山田支隊では、ほかの任務につく兵隊、休憩を与えられる兵隊がおり、全員が捕虜の応対にあたったわけでなく、自分たちの食べ物も十分でなかったため、とくに捕虜の食事は困難を極めました。
そういったなか、十六日、兵舎から火の手があがり、半数ほどが逃亡してしまいます。少ない兵力をねらって中国兵が起こしたものです。
捕虜があまりにも多数にのぼったため、山田支隊長は師団に問い合わせますが、部下が持ち帰った回答は始末せよというもので、そこで、山田支隊長は両角連隊長と相談、近くの揚子江に八卦洲という大きい中洲があることから、そこへ放すことにします。
十六日夜、両角業作連隊長の命令により、角田栄一中尉が第二大隊などを指揮、千人ほどを連れだし、上元門からやや上流の魚雷営付近で釈放しようとしたところ、中国兵が騒ぎだし、ほとんどの中国兵を射殺することになりました。
翌十七日、両角業作連隊長は、残りを下流の草鞋狭から放そうとし、命を受けた田山芳雄少佐が第一大隊長を指揮、揚子江岸まで連れていき、船に乗せ、八卦洲へ向かいました。ところが八卦洲にはすでに中国軍が逃れていて、彼らが騒ぎだし、それをつぎの乗船待ちをした中国兵が見て日本軍を襲いました。山田支隊は発砲、山田支隊にも死者が出る騒ぎとなりました。
突発的な出来事が相次いだことで、山田支隊が威圧するほど多数であったなら中国兵はおとなしく従ったかもしれません。
戦後、あまりに多数の中国兵を殺害したこと、連行に従事した将兵は目的を知らされていなかったこと、始末せよとの返答だったことなどから、不法行為ではないかの批判があがりました。
しかし、山田支隊の所属する第十三師団では、動員された九月、捕虜に対する処置が的確に指示されています。山田支隊長、両角業作連隊長の捕虜に対する考えは、日記と回想ノートから、解放することと判明しています。また、山田支隊から報告を受けた上海派遣軍は、捕虜として受け入れ、使役として使う予定であることが、記述されています。捕虜に対する日本軍の方針は武装解除して解放するというもので、すべて日本軍の方針と合っています。
山田旅団長に対する上級からの答えは、師団司令部が揚子江左岸を滁県へ向かい、上海派遣軍司令部は南京城東方の湯水鎮におり、遠く離れていたため、正しく伝わらなかったと考えられます。
死体は揚子江へ流しましたが、揚子江は減水期で、流れなかった死体もありました。埋葬活動をした紅卍字会の記録によると、魚雷営で八百七十四体、草鞋狭方面で千六百三十九体を埋葬しています。これらは流されなかった死体でしょう。 福島民友新聞社の「郷土部隊戦記」と「ふくしま 戦争と人間」に山田旅団長の日記などが載っています。鈴木明「『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋)の195頁以降に連行と射殺の様子が記述されています。「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)に将兵の日記が多数おさめられており、兵士がどのように受けとめていたかわかります。阿部輝郎は福島民友新聞社の記者で、新聞連載を執筆し、のちに「南京の氷雨」(教育書籍)を著し、連行が二日にわたって行われたことを記述しています。
4 歩兵第七連隊の処断
質問
歩兵第七連隊は、十二月十六日以降、敗残兵を難民区から連れだし、下関(シャーカン)で処断しています。
適切な方法でしょうか。ほかに方法はなかったのでしょうか。
答え
歩兵第七連隊の戦闘詳報は六千六百七十人の中国兵を刺射殺したと記述しています。中国兵を連行する場面や揚子江岸で刺殺する様子は海軍航空隊や野戦郵便局などに目撃され、これが南京虐殺だという見方がなされたこともありました。
それまでの戦闘経過を振りかえると、南京城を守っていた中国軍へ十二月十二日夜南京脱出が命令されます。このとき南京城の東と南はすでに日本軍が進出しており、中国軍は北と西から脱出を図ります。しかし、北西にあるもっとも大きい挹江門からの脱出は禁止されており、第三十六師が警備にあたっていました。挹江門は閉じられ、ここから脱出しようとした中国兵のうち千人は第三十六師に射殺されます。脱出できなかった中国兵は城内へ戻り、軍服を脱いで便衣に着替え、難民区に潜りこみます。
十三日、日本軍の城内掃討が始まり、難民区一帯の掃討は歩兵第七連隊に命ぜられました。
難民区を囲む道路にはおびただしい軍服が捨てられており、歩兵第七連隊の将兵を驚かせます。掃討が始まり、連隊長は敗残兵を捕虜として捕らえるよう命じます。敗残兵を市民から分けるため通訳を同行させることもします。しかし、中国兵は隠れとおそうとし、捕虜となる中国兵はほとんどいませんでした。潜りこんだ中国兵は蔣介石直系軍で、降伏を禁止されていたため、隠れとおそうとしたのでしょう。難民区に隠れた中国軍がどれほどか確定できませんが、日本領事館が入手した数字は一万数千人でした。
旅団長も、連隊長も、安全区へ進み、掃討を重要な作戦とみなしていることがわかります。十五日、徹底した捜査命令が出されますが、捕らえられるのは兵隊だけで、将校はほとんどいません。難民区では多数の武器も発見されており、このままでは治安が安定しません。
十五日夜、敗残兵とみなしたものを難民区から連れだし、揚子江岸で刺銃殺することが決まります。下関まで連れだすのは、難民区の市民を慮ったためです。
十五日夜から始まり、十六日には多数の中国軍を刺銃殺します。連行・刺銃殺はこの日で終わらず、数日間続きます。記録によれば、処断した数は六千六百七十人にのぼりました。
しかし、連行は徹底したものでなく、そのあと第十六師団が兵民分離を行い、難民区から二千人の中国兵を見つけ、監獄に入れます。さらにその後、国崎支隊が調べて五百人の中国兵を監禁します。それでも摘発から逃れた中国兵は多数おり、もっとも多いのは第八十八師長の孫元良以下六百人が難民区から逃れ、三月下旬に漢口へ戻っているものです。それほど中国兵は隠れとおしました。
また、難民区には膨大な武器が隠されており、この捜査も徹底したものでありませんでしたが、多くの市民が出ていった二月中旬、中国の警察が難民区を捜査すると、トラック五十台分の武器がみつかりました。
難民区には一万数千人の中国兵と、多数の武器が隠されており、中国兵の反撃も考えられ、連行のうえ刺銃殺するということは掃討戦という軍事行為です。
戦時国際法からいうと、中国軍は軍服を脱いで便衣に着替えており、捕虜として待遇される権利を失っています。立作太郎はじめ国際法学者もそう考え、歩兵第七連隊の行為が国際法に違反しているわけでありません。また、軍事裁判を行う必要もありませんでした。 紅卍字会の埋葬記録によると、下関一帯で千九百二十四体、水西門、漢西門、漢中門の外で埋葬したのが二千三百九十五体、あわせて四千三百十九体になります。これらすべてが歩兵第七連隊の処断したものでありませんが、多くがそれにあたります。